【サッカー選手引退】去りしレジェンドが遺すもの
サッカー選手の引退
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サッカー選手の引退。それはどの選手にも間違いなく訪れる惜別の時。
クラブの同僚やフロント、そして今まで愛してくれたサポーターとの別れ。それは愛し愛されてきた自身のプレーとの別れでもある。
特に「レジェンド」と呼ばれる選手ほど、その引退は惜しまれ嘆かれる。
「まだまだ先であって欲しかった」と言われるほどの、狂おしいほどの衝撃を与える。
そんな彼らレジェンドが遺すものとは一体…。
ピッチにもたらした感動
FWにしろ、MFにしろ、DFにしろ、それぞれに役割があり、ピッチで存在感を放つ。
目を疑うほどのゴール、芸術的なパス、苛烈なまでのプレッシング。ピッチで繰り広げられるその全てのプレーが、多くの人々を感動させる。それらの感動は時折呼び起こされ、再び大きな感動を与えてくれる。
熱烈なサポーターであれば、「「○○年の○○のゴールは今でも覚えている、あれは神がかっていた」といったように、思い出話として持ち出されることもある。
そこにハイライト映像は必要ない。サポーターそれぞれの脳内でその景色は鮮明に再生される。
ピッチにもたらされた感動は永遠なのだ。
クラブへの愛を紡ぐ
「躍っているかのようなジダンが好きだから、レアル・マドリードが好きになった」
といったように、選手きっかけでクラブに愛情を覚えるサポーターもいる。
現代サッカーでは、選手の動きは常に流動的で、一つのクラブに10年以上止まれるようなことは稀有な例だ。しかしながら、例え在籍期間が長くとも、そこで鮮烈な存在感を放つことができれば、自然とそのクラブも愛せるようになるものだ。
もちろん、在籍年数の長い選手が多いクラブほど、そこに注がれる愛情の熱量もまた大きくなる。
週末に愛すべき選手のプレーを観に行く。それが習慣。こういった文化はサッカー文化(正確にはフットボールか)が息づく、イングランドプレミアリーグではよくあることだ。
「私も、私の父も、そしてその父もマンチェスター・ユナイテッドのサポーターだ。その父はって?あぁもちろん、ユナイテッド推しさ」。
こういった家族代々で一つのクラブを愛しているサポーターもいる。試合を観に行くことは、もはや家族の習慣。何十年にもわたり築かれた習慣は、もはや文化となる。
そこにあるのは大きな愛だ。クラブと選手、サポーターの間で紡がれてきたかけがえのない愛だ。
チームメイトに放った輝き
レジェンドと呼ばれる選手はピッチ内外で存在感を放つが、それは同僚であるチームメイトをも対象とする。
プレーの質の高さはもちろん、ピッチ外での言動も若きチームメイトたちの模範となった。その模範はその若い選手のサッカー人生の指標となる。そしてその若い選手がレジェンドとなった時、また別の若い選手の模範となる。
レジェンドが放つ存在感は輝きでもある。しかし、その輝きはまぶしいだけでなく、重く鈍い輝きにもなる。いぶし銀といったところか。
レジェンドの系譜は繰り返される
レジェンドが引退する度に思う。「もう彼ほどの選手は現れないだろう」と。
当たり前にそこにあったものが無くなってしまった時、人は大きなショックを受ける。長く連れ添った恋人を失うのに等しい感情か。
ただ幸か不幸か、その感情は一時のものだ。「レジェンドの系譜は繰り返される」からだ。
若く優秀な選手が次々に舞台に名乗り出てくる。レジェンドの輝きを見て、薫陶を受け育ってきた選手たちだ。
彼ら次代のレジェンド候補は、今も世界のどこかでボールを追いかけている。